テクノロジーの視点から貨幣を論じる時、大きくわけて2つの論点がある。
一つはブロックチェーンという技術の破壊力である。
情報処理(コンピュータ技術)の世界では集中処理から分散処理へとその技術が発展したきた。
複数のプロセッサ(ノード)が集中管理のもとで動作の制約を受けながら全体としての系を制御する方法(集中処理)と集中管理を行わずに複数のノードが互いに連携して、それぞれが自律的に動いても全体としての系を維持する方法(分散処理)である。分散処理を行うには実は互いのノードで情報交換する「通信」の技術が大いに貢献しているが、この分散処理という方法が可能であり、むしろこの方が情報処理としては信頼性が高く強靭であり優れている。
実は社会も経済も政治体制もこのアナロジーが適用できる。国家政治体制で言えば中央集権制から地方分権制への移行である。
そして経済すなわち貨幣への適用である。
人々の間の取引を集中管理する必要は全くない。中央で集中管理された従来の通貨を通して取引する必要性も全くない。取引における信用は機械的に処理し一切人間の恣意性を排除できる仕組みを構築する。これがブロックチェーンという技術を応用した仮想通貨である。
ここにおいては、国家という権威は必要でない。私たちはむしろ技術という権威に従うことになる。
しかしそこまで機械に託してよいものかとの疑念が残る。また通貨の持つ本質的な機能は何ら変わらない。むしろ後退しているのではないかとの意見もある。
そしてもう一つの論点は「情報」が20世紀の「石油」に変わる一大資源になったということである。
情報技術(IT)の進展は確かに私たちの生活を便利にしてくれた。しかし私たちがそれに依存することで私たちの一挙手一投足が誰かに捕捉されているとしたらどうだろう。そしてあなたの一挙手一投足があなた自身の信用のスコアになるとしたら・・そしてその信用スコアが「お金」だとしたら・・。
GAFAと呼ばれる一部のプラットフォーマーには膨大のデータが蓄積されつつあり、正にこのデータによって彼らは巨大な利益をあげている。私たちが使っている彼らのサービスによって私たちには知らず知らずに私たち自身の情報が抜き取られており、表向きには私たちへの利便性を提供しているように見せながらもそれがどのように使われているかもわからないのである。 本当に彼らの軍門に降っていいものなのか?
さらに恐ろしいのが、全体主義国家がこれらの技術を操ろうとしていることである。
一体、このような世界はユートピアなのかディストピアなのか?